前評判
フットボール・マターズ:アスレティック・ビルバオ、真の色(III)
フットボール・マターズ:アスレティック・ビルバオ、真の色(II)
フットボール・マターズ:アスレティック・ビルバオ、トゥルー・カラーズ(I)
偉大な画家パブロ・ピカソには『ゲルニカ』という絵がある。この絵が生まれた歴史的背景は、スペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツ軍がバスク地方の小さな街ゲルニカを絨毯爆撃したことに由来する。爆撃でゲルニカはほとんど壊滅状態になり、何千人もの人々が死傷した。しかも、そのほとんど全員が、反撃する力もない弱者、女性や子供たちだった。ピカソはこの絵を使ってピカソはこの絵を使って戦争の暴力を糾弾し、愛と平和を求める人類の願いを語った。画家時代のもうひとつの有名な逸話は、ドイツ軍がピカソに冬を越すのに十分な石炭を提供しようとしたが、ピカソは丁重に断ったというものだ。出発前にゲルニカを見たドイツ軍将校は、ピカソにこう尋ねた。ピカソはこう答えた!ゲルニカはバスクの誇りであり、スペインの中央集権化に対する抵抗の象徴となった。現在のバスク人のほとんどは、成長する過程でゲルニカの絵を見たに違いない。ビルバオやバスクが好きなのと同じくらい、マドリードやスペインが嫌いなのでは?
今日に至るまで、スペインで大規模な戦争が行われることはなくなったが、バスクのレジスタンスは依然として存在し、バスクのアイデンティティ、政治、ナショナリズムはサッカーという道具(武器)を通じて広まっている。バスクとバルセロナのカタルーニャは、フランコ統治時代に中央政府に抑圧され、現在に至るまで様々な独立の機会を模索しているという点である種の共通点を持ち、サッカークラブは両地の精神を代表する存在である。2015年のアスレティック・ビルバオ対バルセロナのコパ・デル・レイ決勝を思い出してほしい。バルセロナがまだMSNとのコネクションを持ち、彼らがまだコスモスだった頃だが、カタルーニャの芸術性とバスクの勇敢な精神とは別に、もうひとつ忘れがたい光景があった。両軍のファンが地域の独立を象徴する旗を振り、団結してスペイン国歌の演奏を妨害したのだ!スペインのフアン・カルロス国王の目の前で!バスクのサッカーチームには、アスレティック・ビルバオの他に、レアル・ソシエダ、CAオサスナ、SDエイバル、デポルティボ・アラベスなどがあり、以前の記事で触れたように、アスレティック・ビルバオが内側にいることを除けば、バスクの文化、伝統、情緒を守るために活躍している。アスレティック・ビルバオは、この中で最も遠い(見方によっては最も極端な)存在である。とはいえ、これはかなり極端なケースで、ほとんどの場合、アスレティック・ビルバオのファンはチームとバスクへの愛を非暴力的かつ真摯に表現し、その愛は選手にも及び、アスレティック・ビルバオの元キャプテン、ホセバ・エチェベリアは契約終了後、無償でアスレティック・ビルバオでプレーした!
試合の日、アスレティック・ビルバオの本拠地であるサン・マメスに入ると、息をのむような巨大な歓声が聞こえてくる。 ファンはサン・マメスのスタジアムを大聖堂と呼ぶが、スタジアムを有名にしているのは建物そのものではなく、その内部で行われていることなのだ。サン・マメスを率いるマルセロ・ビエルサ監督は、サン・マメスには選手とコミュニケーションを取る独自の方法があると言う!しかし、何事もそうであるように、陽のあたる場所には影がつきもので、バスクの独立を求める武装暴力集団ETA(Euskadi Ta Askatasuna=バスクの祖国と自由)が、アスレティック・ビルバオと一進一退の関係を続けているという噂もある(もちろん、ビルバオ関係者は強く否定している)。1990年代の全盛期には、ETAは資金集めのためにバスクのサッカークラブの運営にも介入しようとし、選手から金を脅し取ったりもした(有名なのはビシェンテ・リサラズなど)。
移籍
サッカーチームは必ずしも協力的で理解があるとは限らず、時には選手に肉体的、精神的なトラウマを与えることさえある。次回は、"聖人から悪人 "になった2人のサッカー選手から、バスクサッカーのダークサイドを見ていこう・・・・・・。