記者:内田選手がサッカーを始めたのはいつですか?
内田:小学校1年生のときに地元のジュニアサッカーチームでサッカーを始めた。
記者:そのジュニア・フットボールチーム以外で練習していたところはありますか?
内田:昼休みや放課後に同級生とサッカーをしていました。当時は「プロサッカー選手になりたい」という夢を持っていましたが、若い頃はそう思うのが普通なので、特にプロサッカー選手になりたくてサッカーをやっていたわけではなく、ただ楽しくサッカーがしたかっただけです。
記者:最初は普通のサッカー少年と同じだったんですか?
内田 そうですね、中学までは。でも、高校でサッカーの強い清水東高校に入学して大きく変わりました。
記者:高校3年で鹿島に入団し、すぐに2006年のJ1開幕戦で球団史上初のルーキー開幕戦メンバーに選ばれましたね。
内田:運とタイミングに助けられたと思う。
記者:日本代表選手が高校生のうちから「将来はプロ選手になりたい」と思うのは、なかなかないことだと思います。
内田:鹿島にスカウトされるまでは、卒業後は大学に行くことしか考えていませんでした。清水東高校では、将来行きたい大学や学部を書くことになっているんですけど、そのときは明確な目標がなくて。 隣の生徒が「早稲田」と書いているのを見て、まだプロサッカー選手になることを真剣に考えていなかったし、もしそう考えていたら「鹿島に入る」とか「Jリーガーになる」とか書いていたと思います。
記者:大学に進学したら、アメフト部に入るんですよね?
内田:そうですね、サッカーを続けるなら歓迎してくれる大学が多いと言われたことがあります。
記者:"その "というのは、"その "という意味ですか?
サッカーのススメ
学生」として大学に行くのはどうだろう?
内田:そうですね、U-16日本代表に招集されたこともあって、練習や試合でほぼ月に1回は海外に行っていました。学校に戻ると教科書が2冊目に変わっていて、勉強にまったくついていけなかったので、勉強で大学に入るのは無理だと当時から思っていました。同級生で受験をせず、大学を卒業してすぐに就職したのは私だけでした。
記者:Jリーガーとしての "就任 "という表現は新鮮でいいですね。高校時代、清水東は大学サッカーで有名な学校なので、プロ選手になりたいという思いはありましたか?
内田:そうですね、清水東には(全国大学サッカーの)選手権の大会に出たい高校生が集まっていて、そこでサッカーの基本的なことから厳しいことまで学びました。
記者:クリアウォーター・イーストのフットボール部に入部した当初、あなたのレベルはどの程度でしたか?
内田:1年生ランナーの頃は、後ろの席にギリギリ座れたかもしれません。でも、走るのが速かったので、監督からよく途中で上がらせてもらいました。
記者:大学でいきなりこのような競争環境に直面するのは大変ですよね。
内田:ええ、でもそれは予想通りでした。お母さんが朝4時に起きてお弁当を作ってくれたり、毎日始発のバスで学校に通ったり(注:内田の自宅は学校から車で1時間半のところにあった)。でも、サッカーを一緒にやりたいと思わせてくれるいい仲間がたくさんいたからか、決してあきらめようとは思わなかった。中1のときは、怖くて中3の先輩たちに声をかけられなかったけれど。
記者:その間はどうだったんですか?
内田:そうですね、いつも説教されましたが、その経験がサッカー部の選手たちに社会で働く忍耐力を養わせたと思います。
記者:中田英寿氏もインタビューで、自社の社員を採用する際、学生時代にスポーツをやっていた人の方が粘り強くていいと感じたと語っていた。
内田:僕の直感かもしれませんが、Jリーグユース・U-18の方が技術のある選手を輩出していて、U代表の人数が大学サッカー出身者よりも多いのに、最終的に生き残るのは大学サッカー出身者だと思うんです。
記者:清水東時代は、チームの練習が終わった後も残って1人で練習していたと聞きましたが?
内田:通学に時間がかかるので、たまにしか参加しません。
記者:当時の練習内容についてはいかがですか?
内田:隅から隅まで走って、監督とコーチが真ん中にボールを蹴って、それを必死に追いかけて......。
記者:(笑)内田選手のキャラクターは走力を売りにしているようには見えませんが、清水東で培われたのでしょうか?
内田:そうですね。当時、OBの長谷川健太さんの『ケンタリング』を真似しなさいと言われて、ずっと練習していました。
記者:ケンタリング(笑)。でも、最初の頃のプレーに似ていますね。