アジアサッカーの黎明期、サッカーという言葉が一般的になる前にさかのぼるが、20世紀末、日本サッカー界に緑豊かな強豪チームが出現した。読売の名を冠したこのチームは1969年に創設され、1980年代後半にはクラブアジアカップで優勝した。
1993年、日本サッカー協会(JFA)がプロ化を呼びかけ、読売はJリーグ最初の10チームのひとつである「川崎グリーン」に変身した。東京に本拠地を構えるのは困難だったため、チームは最終的に川崎市に隣接する「川崎ベルディ」を選んだ。
Jリーグ開幕のシーズン、川崎翠嵐は総合的に素晴らしいパフォーマンスを見せた。三浦知良、ラモス・ウェイウェイ、北澤寛、武田修宏といったアジアの名だたるスター選手たちが結集し、プロ化以来初となる日本のトップリーグでのタイトルと、第1回日本リーグカップを獲得したのだ。
1994年、川崎翠嵐はその成功の上にJ1リーグのタイトルを獲得し、見事な防衛を果たした。プロ化という新たな潮流の中で、日本サッカー新時代を象徴するクラブとなり、まるで古豪の王座に就こうとしているかのようだ。
三浦知良は川崎グリーンでアジアサッカー界に輝いただけでなく、1993年には26歳でJリーグ最優秀選手賞とアジア年間最優秀選手賞を受賞した。1990年から1998年にかけては、日本人選手として初めてアジア年間最優秀選手に選ばれ、川崎グリーンで92戦100得点を記録した。
Jリーグ発足後、川崎翠嵐は初代リーグ王者に躍り出ると、1995年にはJ1リーグ準優勝、1996年には天皇杯優勝を果たした。三浦知良、ラモス圍に加え、寿谷哲司、高木大輔、大黒将志、服部二宏、前園真聖など数多くの逸材を擁した。このスーパーグリーン軍団は、国内外の大会で素晴らしい成績を収め、日本のプロサッカーの象徴となった。
Jリーグの初代王者として、川崎翠嵐は輝かしい未来を持っていたはずだった。しかし、経営不振やその他多くの理由により、2008年に降格した。最後にトップリーグで戦ったのは15年前である。
2008年に改名した東京グリーンは、もはや一流チームではなくなっていた。15年間J2リーグから遠ざかっていたにもかかわらず、ここ数年、彼らは休んでいたわけではない。
2部リーグで戦っていても、東京グリーンはJリーグのルールに従い、完璧なユース育成システムとラダーを構築し、多くのサッカーユースとプロ選手を育てている。
さらに、東京グリーン女子サッカーチームNTVビューティーズ(日本テレビ東京グリーン女子サッカーチーム)は、日本女子サッカー界の超大国となった。2019年、彼らは第1回AFC女子サッカー選手権大会(旧称:読売ビューティーズ、1981年)で優勝した。
日本テレビの美女たちはWELeague(日本の女子プロサッカーリーグ)でプレーしている。WELeagueは2021年に正式名称がプロに変更されて以来、アジア初の完全な女子プロサッカーリーグとして注目されている。一方、1997年に創設された女子スーパーリーグは、まだセミプロとみなされている。
経営難で降格を余儀なくされた東京グリーン。しかし、多角的な展開から抜け出し、東京の豊かな資源を背景に、J1の強豪に勝るとも劣らない力を蓄えている。
東京グリーンは、サッカークラブとしてだけでなく、トライアスロン、バレーボール、ビーチサッカー、eスポーツ、チアリーディング、ダンス、野球、スケートボード、3V3バスケットボール、ゴルフ、その他多くの素晴らしい分野へと、通常のサッカーの領域を超えてさらに成長した。
東京グリーンの多様性は、30年来のファンが多いクラブであることだけでなく、Jリーグの「ホームタウン」理念によるものでもある。
かつては男子サッカーチームしかなかったクラブが、今では多方面へとスピンオフし、あらゆる年齢層の人々をつなぐ存在となり、多くのファンを抱えている。
今日に至るまで、東京グリーンのホームスタンドでは、忠実なファンがクラシックな第1世代チャンピオンシップのホームジャージを着てチームを応援する姿を見ることができる。
経済的基盤が上部構造を決めるというのは、サッカーの世界でも当てはまる。しかし、かつて日本サッカー界を席巻したアジアの名だたるプロ王が、15年夏の2次リーグで経済的支援を失うとは誰も予想していなかった。
来シーズン、16年ぶりにJ1リーグに復帰する東京グリーンは、トップリーグでの栄光を目指してさらに闘志を燃やすに違いない。
出遅れはしたものの、最終的には昇格を果たした。ラダーの構築、女子の強さ、クラブの強さという点で、チームは15年前に降格したときの状況をはるかに凌駕している。今、東京グリーンは幸運にも日本プロサッカー界の元年王者となった。