2018年、日本代表の流血の波から頭角を現した身長わずか1.64メートルのサッカー界の新星は、日本代表のリーダーの象徴である10番をつけ、将来の日本代表の中核となることを示した。その息子はポルトガルのスーペルリーガで頭角を現し、ピッチ上で「ダブル20」という稀有なスタッツを記録して世界の注目を集めた。そして、アジア人選手としては史上最高額の移籍金3500万ユーロでポルトガルからカダールのFCダレルに移籍したのが、伝説の小男、中島翔哉である。
写真/ウェブサイト:香川真司から10番のジャージを受け取った中島翔哉(https://www.lalasport.com/2019/)。
中島翔哉は記録的な移籍金でデュレルに移籍したものの、ポルトガルに戻り巨人ポルトに入団するまでの半シーズンを過ごしたに過ぎなかった。幸運なことに、中島はポルトの「10番」ジャージーを与えられ、チーム内での地位と期待を認められた。しかし、さらなる飛躍が期待された矢先、ポルトのコンセイソン監督に見放され、シーズン通して先発出場はわずか5試合、あとはベンチか交代要員だった。中島翔哉は挫折を味わったのか?統計から彼の近況を分析してみよう。
両親の離婚後、母親のもとで育った中島翔哉は、6歳で東京グリーンに入団してサッカーの道を歩み始め、2004年には東京選抜の代表として国体に出場し、優勝を果たした。東京グリーンユースでは2年連続日本クラブユース選手権優勝に貢献し、ブラジル、オランダへの短期留学も経験した。
2012年にプロ初契約を結んだ中島翔哉は、2012-2013シーズンにFC東京で目覚ましい活躍を見せ、J2リーグの富山ビクトリーからも注目を集めた。最終的にチームはJ3リーグに落ちたが、翔哉の加入はチームに攻撃のバリエーションをもたらした。半年後にFC東京に復帰した翔哉は、ますます出場機会を得るようになり、2016年にはU23日本代表をアジアU23カップ優勝に導いた。ケガでトゥーロンカップと多くの試合を欠場したものの、2016年のブラジル・オリンピックに出場し、当時FC東京のボスだった篠田善之の信頼と忍耐を得ることで、自分の価値を証明した。
写真/ウェブサイト:FC東京でプレーする中島翔哉 (https://news.livedoor.com/)
2017/2018シーズンにポルティマン・マンにレンタル移籍で加入した翔哉は、シーズン中にリーグ戦29試合、10ゴール、10アシストに貢献し、ポルトガルスーペルリーガの中心選手となった。WHOSCOREDのレーティングでは平均7.24点、チーム2位、ポルトガル・プレミアリーグ11位と、間違いなくリーガ・ポルトゥゲーザのパワーフォワードとなった。2018年からは日本代表にも名を連ねるようになり、ワールドカップの出場権は逃したものの、森保一新監督の下で日本代表の新たなリーダーとなった。
ポルティマン・マンシャフトに復帰した翔哉は13試合で5ゴール5アシスト、総合評価7.25と好調を維持したが、2019年3月、これまでのアジア人選手の移籍金記録を更新する3500万ユーロでドゥハールに移籍。ドゥハールとパリ・サンジェルマンは同じグループが経営していることから、パリ・サンジェルマンへの引き抜きの可能性も予想されており、翔哉は世界トップクラスのクラブへの加入に近づいている。
写真/ウェブサイト:ポルティマンズでプレーする中島翔哉 (https://twitter.com/HalaTransfers/)
しかし、翔哉はドゥアイユでのわずか半シーズン後に再びポルトガルに戻り、ポルトに移籍した。新シーズンはポルトガルでの復活が期待されたが、コンセイサンの監督就任が大きな挫折となった。次は、中島翔哉がキャリア最低を記録したかどうかを統計学的に分析する。